1954-02-03 第19回国会 衆議院 外務委員会 第4号
○長谷川参考人 留守家家族からマレンコフ首相、ヴオロシーロフ議長にあてました手紙は、現在は御承知の小畑夫人がやつておられますところで集めておられます。あそこから出すようにその会では言つておられますけれども、一部工藤さんの方にも行つているかもしれません。それから先はどうなつているか、単独にお出しになることはありますけれども、別に別口からそつちへ行つているか、これは存じません。マレンコフ政権になりましてから
○長谷川参考人 留守家家族からマレンコフ首相、ヴオロシーロフ議長にあてました手紙は、現在は御承知の小畑夫人がやつておられますところで集めておられます。あそこから出すようにその会では言つておられますけれども、一部工藤さんの方にも行つているかもしれません。それから先はどうなつているか、単独にお出しになることはありますけれども、別に別口からそつちへ行つているか、これは存じません。マレンコフ政権になりましてから
○長谷川参考人 今度帰りましたことについての動機、われわれが考えています動機からそういう方法が生れると思うのでありますが、それにつきまして、私たちが集結を各地から始めましたのが六月の初旬であります。全部ナホトカに集結を終つたのが、主力が七月の十一日樺太から入りまして、七月十五日に全部終りました、それから以後大山さんがおいでになりましたのが七月二十一日でありまして、私たちはその当時は全部集結を終つておりました
○長谷川参考人 私は昭和十四年以来関東軍の報道部長をしておりまして、終戦とともにソ領内に連行されまして、昨年十二月一日舞鶴に上陸いたしました。私が向うで二十四年の八月に刑に処せられました経緯は、関東軍の報道部長として関東軍内の軍の移動があつた際に、これをまつたく無言に付して、ソ連軍の背後に関東軍が急襲するに容易ならしめたというかどが一つ。独ソ戦間に、報道部長の報道は、独軍に有利にしてソ軍に常に不利であるという
○長谷川参考人 ただいまお尋ねのありましたことにつきまして、私の住んでおりましたハバロフスク地区では、ああいう目につくところのためでありましようか。そういう者には遭遇しなかつたのでありますが、今度集まつて参りました人々の中でそういう人に遭遇をし、話を承つたのでありまするが、これにつきまして大山参考人が若干知つておりますから、これに述べさせます。
○長谷川参考人 私は元軍人をしておりましたので、立つたままの方が話しやすいのであります。 従つて、あとに残つております方の帰還を促進いたしませんというと、せつかく帰つて参りましても、単に個人の喜びをわかつたのみであつて、国家のある力となり得る人が、むなしく彼の地に相果てるのではないかと思いますので、この点、早期の帰還が必要と思うゆえんであります。 第三に申し上げたいことは、ナホトカに集結いたしました
○長谷川参考人 御報告に先だちまして、まず、皆さんの努力によりましてわれわれ、八百十一名が帰還できましたことを厚くお礼申し上げます。 本日は私ほか四名がここに参つたのでありますが、あらかじめお断りいたしますことは、私たちは、小さな窓をのぞいてわれわれの残留者、死亡者を見て参りまして、全体的なつかみ方とか、今まで政府あるいは諸団体とどんな交渉があつたか、どんな要求があつたかということには目をとざされておりまして